エキゾチックなひびきをもつ ”みなと横浜”。「横浜」の地名を最も古く見ることのできるのは磯子区にある宝生寺が所属する嘉吉2(1442)年の古文書である。横浜のめざましい発展は幕末の開港にはじまる。そして今、”みなとみらい21(MM21)”をスローガンに「21世紀の都市」づくりがすすめられている。
この飛躍・発展のかげになって、人々が古くから営んできた生活のあと、”歴史”を見おとしてはいないだろうか。古くは,瀬谷区本郷などの先土器時代の遺跡をはじめ、縄文・弥生・古墳時代の人々の生活のあとを示す遺跡は市内全域にひろがっている。古墳期には『日本書紀』安閑天皇条に屯倉として倉樔(くらき)(久良岐郡=横浜南部か)の地域が献上されたと記されており、大和朝廷の勢力浸透の様子が見られる。また律令支配のあとも、港北区太尾町などに見られる条里制のあとを示す地名(市の坪)、また、都築郡(横浜北部)の服部於田(はとりのうえた)の防人の歌などによりうかがい知ることができる。平安末期には磯子・本牧・石川などの地を支配する平子(たいらこ)のような武士団も形成され、鎌倉時代には、頼朝の御家人として幕府を支えた。六浦道なども整備され、称名寺・金沢文庫もつくられ鎌倉とのかかわりでにぎわいをみせた。戦国時代には小田原北条氏のもとで蒔田に本拠をおく吉良氏が勢力をのばした。江戸時代、17世紀末に金沢区におかれた六浦藩(米倉氏1万2000石)を除いて大部分が天領で、一部旗本領になった。神奈川は港町として、また保土ヶ谷・戸塚とともに東海道の宿場としてにぎわいをみせた。吉田新田など新田開発がおおいに行われたのもこの頃である。
ペリー来航後は文字通り日本の玄関として、また工業都市として発展した。関東大震災、太平洋戦争の打撃からも立ち直り、今日では多くの問題をはらみつつも東京とのかかわりをもちながら、東京に次ぐ巨大都市に膨張してきた。しかし開発のつち音は、また先人の貴重な遺産を破棄していく音でもあるのだ。
参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996
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