みなとと山下公園

横浜の歴史散歩
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1858(安政5)年に結んだ日米修好通商条約では開港場は神奈川と記されている。しかし攘夷熱の高まる中で宿場町・港町としてにぎわい、人出の多い神奈川では外国人とのトラブルが心配であった。幕府が他の適当な所を再検討し始めた時、勝海舟の門人佐藤政養(さとうせいよう)が横浜村を推した。東海道をはずれたひなびた漁村で手を入れれば長崎の出島と同様な条件を作れると考えたのだ。幕府は開港場を横浜に改め、外国側の反対を押しきり、商人たちの横浜移住を呼びかけた。1859年、開港した時、神奈川はもぬけのからで商売にならず、外国商館も横浜に移ってきた。そして1860年には掘割工事を行って大岡新川をつくり、横浜を出島にしてしまったのである。

1859年、開港と同時に2ヶ所の波止場(はとば)がつくられた。輸出入貨物を扱う東波止場と国内の貨物を扱う西波止場である。ついで1864(元治元)年、今のホテルニューグランドの真向かいあたりにも波止場がつくられ、東波止場ともフランス波止場とも呼ばれた。そこで前につくられた二つの波止場を合わせて西波止場・イギリス波止場・メリケン波止場などと呼ばれた。現在の大桟橋(おおさんばし)のあたりだ。フランス波止場は現在埋め立てられてしまっているが、ここから幕末には井上馨、伊藤博文らが密航している。

現在飛行機の発達の影響で、旅客船の入港は減少してきたが、貿易輸出入港としては大きな役割を果たしている。

大桟橋に隣接して日本で最初の近代的な海辺の公園といわれる山下公園(やましたこうえん)がある。この公園は関東大震災で崩壊した建物の瓦礫(がれき)の山をもってきて埋め立ててつくったもので、昭和5年に完成し、市民に開放された。山下公園は横浜が大震災の悲劇を乗りこえた姿を示しているともいえよう。山下公園の一角に固定されている氷川丸(ひかわまる)は昭和5年からシアトル航路に就航し、太平洋の女王とうたわれ、秩父宮夫妻・チャップリンらも乗せたという。昭和36年より公園に繋留(けいりゅう)され一般に公開されている。

参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996

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