野毛山公園と佐久間象山顕彰碑

横浜の歴史散歩
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横浜市西区老松町63(根岸線桜木町駅下車10分)

音楽通りの入口の所ですぐ左に折れる道を通称動物園通りと呼んでいる。その道を250mほど進むと野毛坂にぶつかる。坂を登り左に私立図書館を見て左へ曲がると、右手一帯が野毛山公園(のげやまこうえん)だ。この一帯はかつて横浜の巨商原善三郎や茂木惣兵衛らが邸宅を構えた所である。1923(大正12)年の関東大震災で壊滅したあと、隣接する野毛山貯水池・市公社・病院跡などを合せて、1925年公園とするための工事が始められ、翌年開園した。日本庭園・洋式庭園・折衷公園の三様の特徴のある公園だった。太平洋戦争中は陸軍が使用し、戦後は昭和22年まで接収されていた。その後昭和24年日本庭園の部分に動物園が、26年には洋式庭園の地域に児童遊園がつくられ、市民に親しまれている。

野毛山公園の一番高い台地に「横浜開港の先覚者佐久間象山顕彰碑(さくましょうざんけいしょうひ)」が昭和29年、開国100年を記念して建てられた。松代藩士佐久間象山は、アヘン戦争より、ヨーロッパ列強の恐るべきことを知り、早くから開国、通商交易の必要なことを献策した。吉田松陰・勝麟太郎(かつりんたろう)(海舟)らに洋学を教え、儒教を東洋の道徳、科学を西洋の芸術と称して、この二つの学問の融合をはかった。ペリーの来航した時には老中阿部正弘(あべまさひろ)に「急務十事」を健言し、開国を論じた。1854年、ペリーが再来した時、吉田松陰が密航を企てたが、このことに象山も一枚加わっていたため、捕らえられたのだった。象山は開港場として横浜が最適の地であることを強く主張しており、今日の発展の下地をつくったといえよう。

象山が京都にいた時、馬上洋服で町を行く姿は、尊攘派を刺激し、1864(元治元)年、尊攘派の刺客によって非業の死をとげることとなった。

参考 神奈川県の歴史散歩 山川出版社 1996

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