本牧市民プール(ミンプー)2023年夏に再オープン

歴史
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はじめに

横浜市の大きな市民プールは、「本牧市民プール(ミンプー)」と「横浜プールセンター(マンプー)」があります。

いつもでしたら市民プールは、毎年7月の第2土曜日にオープンしていました。しかし、本牧市民プールは2016年から、横浜プールセンターは2021年から、どちらも設備の老朽化による漏水の為、営業を休止しています。

本牧市民プール営業休止中の看板

その本牧市民プールが、2023年7月から再オープンとの発表がありましたので、本牧市民プール近辺について色々と調べてみました。

本牧市民プール付近の歴史

昔、本牧市民プール付近は、半農半漁を営む村で岸壁を下ると遠浅の海岸が広がる海で本牧海岸と呼ばれていました。そんな静かな海岸が一転したのは1854年、ペリー率いる黒船が本牧海岸に来航したことで大騒ぎとなります。1853年に黒船が浦賀へ来航したことで、日本は黒船再来の対策として本牧海岸を江戸湾沿岸警備区域とし、大砲を設置し多くの兵隊を配置しました。翌年の1854年、ペリー率いる黒船が再来し本牧海岸を測量後、本牧八王子鼻(現在の横浜市営バス本牧車庫前の崖)に文字を書きました。そして横浜は1859年(安政6年)に開港します。ただ、開港後も綺麗な本牧海岸は、居留外国人達のリゾート地として利用されましたが、静かな半農半漁の村のままでした。

現在の本牧市民プールは、その本牧海岸の海を埋め立て、その上に設営されました。

黒船来航と日米和親条約

・1854年 黒船に乗ったペリー総官が現れ、八王子崖の本牧鼻に文字を書いた。

 その間、警護のため2,500人もの武士が集まり砲台が作られます。再度来航したペリー総官が幕府と交渉し「日米和親条約」が結ばれました。

▼ペリーが、書き残した様子を書いた江戸時代の「かわら版」

出典:横浜市「横浜の歴史」から https://www.city.yokohama.lg.jp/

・1858年 五ヵ国と通商条約を結び外国人を受け入れることとなる。

・1859年 横浜が開港され、五ヵ国が今の関内(外国人居留置)に住み始める。

・1862年 生麦事件により外国人を守る為、イギリス軍、フランス軍が駐屯した。

・1865年 外国人遊歩道が出来、その敷地内の海岸沿いをリゾート地として好まれた。

小説ではありますが、当時の様子を忠実に描写された書籍を、山崎洋子さんが書かれています。

外国人リゾート地

そのリゾート地は、本牧八王子鼻(現在の横浜市営バス本牧車庫前の崖)付近で、外国人専用の海水浴場として使われていました。当時の外国人旅行記には、その風景が描写されています。

断崖からけわしい坂道を降りると、稲の栽培されている谷間に入る。ここから数本の小道が伸びて、ミシシッピー湾の絵のような入江に富んだ海岸にある、数多くの小さな海水浴場に達する。断崖に住んでいる多くの人びとは五月から八月にかけて、横浜の暑苦しさを避け、よく澄んだあまり冷たくない水を浴びて楽しむために家族たちをそこへ送るのである。

アーサー・H・クロウ『ハイウェイズ アンド バイウェイズ イン ジャパン』1883年刊

当時、日本には海水浴というレジャー文化はなく、この外国人専用の海水浴場は柵がしてあり立入禁止の札が立っていて勝手には入れませんでした。その柵の中には、夏季限定で「サマーハウス」と呼ばれる、赤いペンキで塗装された8畳程度の仮屋(今でいう海の家)が十数件建てられていました。日本人も経営しており、井戸水を使ったシャワーがあり、紅茶やコーヒーを入れてあげたり、水着を翌日まで干したりのサービスを提供して地元にとっては副収入源となっていました。

ヘルム一族は、本牧(現、本牧元町)の丘の上に二階建ての洋館を建て、海岸での生活を楽しんでいました。木造の階段が百段以上あり、降りた浜辺は外国人が夏の間だけ借りる竹製の小屋が並び「ソサエティー・ビーチ」と呼ばれていました。

外国人は、お金を出し合って水泳やボート遊び用に木造の桟橋を建造し台風が来る9月前には壊していました。ヘルム一族の洋館には、その日の朝に獲れたばかりの魚介類を漁師が売りに来ていたそうです。

▼本牧八王子鼻(現、本牧元町)のリゾート時代と現在の写真対比

出典:Dave 様(リゾート地時代の写真)

海水浴場

横浜での正式な海水浴場は、1892年に本牧在住の二人が、県の許可を得て現在の新山下に設けました。当時は、ほとんど外国人専用でしたが、新山下が埋めたてられて市電が間門まで延長されると本牧の海岸が海水浴場として賑わい始めます。本牧の海は、漁業の場としてだけではなく、日本人が海水浴を楽しむ場所にもなり、その客をあてにした地元経営の飲食店も増え、客も外国人から市民へと次第に変わりました。

・1911年 本牧への路面電車が間門まで延長すると日本人も海水浴場へ出かけるようになった。

▼横浜本牧海岸の風景

出典:横浜手彩色写真絵葉書図鑑 https://yokohamapostcardclub.blogspot.com/

▼横浜本牧の海水浴

出典:横浜手彩色写真絵葉書図鑑 https://yokohamapostcardclub.blogspot.com/

軍事施設

戦争時は、本牧海水浴場(現、本牧市民プール)から一変して軍事施設となりました。

本牧市民プールの崖は、旧日本軍が幅5メートル程度のコンクリート製の波止場を作り、崖に横穴を掘って敵の軍艦本土襲来に備え、特攻艇を配備していました。しかしながら、敵軍の攻撃は、航空機が殆どであり、使用しないまま終戦を迎えることとなります。

・1941~1945年 太平洋戦争においては、日本軍の軍事施設となった。

▼1961年撮影:本牧海岸埋め立て前の軍事施設横穴

出典:はまれぽ.com https://hamarepo.com/

▼1965年撮影:本牧海岸埋め立て中の軍事施設横穴

出典: はまれぽ.com https://hamarepo.com/

潮干狩り・海苔の養殖

本牧市民プールは、三渓園の海岸側に位置しており、開港以前から半農半漁の小さな村だったため、民間人の食べ物も自ずと魚貝類が主食となっていました。潮干狩りで貝を獲ったり、また本牧から磯子にかけては海苔の養殖が盛んで、海苔の胞子をつけるヒビが広がっていました。詳細については、本牧市民プール上にある八聖殿(はっせいでん)郷土資料館で当時の資料や展示物で見学することができます。

▼本牧三渓園前の海岸で、潮干狩りを楽しむ人々

出典:八聖殿 https://www.sites.google.com/view/hasseiden/

▼本牧から磯子にかけては海苔の養殖が盛んだった。(三渓園崖上から撮影)

出典:八聖殿 https://www.sites.google.com/view/hasseiden/

本牧海岸埋め立て工事

戦後の日本産業発展に伴い、根岸湾臨海工業地帯の造成が進む中、本牧海岸も埋め立て計画地となります。地元住民や漁業関係者は海が無くなることに反対しましたが、海が無くなる代わりとして、当時の飛鳥田一雄横浜市長の公約により、市有地および運河を埋め立てた土地へのプール建設が決定しました。

・1958年 当初、地元では埋め立て計画の反対運動を行ったが、街の発展と将来のために同意する。

・1963年 臨海工業用地造成として、横浜市港湾局は埋め立て工事を開始する。

▼戦後の横浜市埋め立て計画

参考:「横浜港整備の概要」(昭和51年)横浜市港湾局

▼本牧海岸の時代と、埋め立て中、本牧市民プールが設営後の写真対比

本牧市民プールのこれまで

・1969年7月 地元住民への海の代替施設として本牧市民プールがオープンした。

横浜市長のプレート

▼完成に伴い、当時の飛鳥田横浜市長が完成までの経緯を綴ったプレートが設置されていた。

 海水浴や潮干狩りなど 市民に長い間 親しまれてきた名勝の地 三渓園八聖殿前の海面一帯にわたって本牧ふ頭および工業地帯を建設するため 約五百十万平方メートルの埋立が 昭和三十八年四月から 港湾局の手によって行われました
 そのひとつとして海を失った市民のため ここに大プールを建設し 昭和四十四年三月完成したものであります

昭和四十四年五月 横浜市長 飛鳥田一雄

本牧市民プールから

本牧漁業協同組合記念碑

本牧市民プール開業の2ヵ月後、隣接されて本牧市民公園が開園しました。そこには、埋め立てされた海への想いを刻んだ記念碑が建っています。

・1969年9月 本牧市民公園が開園した。

▼本牧市民公園に建てられた本牧漁業協同組合の記念碑

由来

本牧は、往昔小田原北条氏の所領であり、後に徳川幕府直轄の地となり、武蔵国久良岐郡本牧村大字本牧郷と呼んだ。風光明媚な漁村で、緑濃い背後の丘陵地は、貢馬を育てた牧場であったと伝えられる。
浮世絵師廣重も、この地に遊びにきて絵を描いた。波静かな海に、豊かな資源に恵まれた漁場を持った私達本牧漁業協同組合員は、祖先より受継いだ土地と海に誇りをもって守り育ててきた。
昭和三十八年四月一日横浜市が施行する本牧ふ頭関連造成事業のため本組合は、市発展の大乗的見地に立って愛する海の埋立に同意した。
かつては、この海で、泳ぎ魚貝を採り、海苔の香に親しみ十二天社の勇壮なるお馬流しの神事を行ったことも今は、思い出となる。
嗚呼。由緒と伝統あるこの海も、新しい土の下に永遠に眠る。往時を偲び父祖の労苦に感謝の意を捧げ、子孫の繁栄を永劫に祈念して、この碑を建てる。

本牧市民公園から

営業当時の様子

本牧市民プールは、休止前では毎年7~8万人、最盛期では、なんと30万人近い利用者が訪れました。子供から高齢者、近所の住民はもちろん遠方からも車で来園し、夏休み中も重なり駐車場は待ちの車が産業道路に並んでおり、子供たちは先に車から降りてプールを目指す光景が見られました。

▼本牧市民プールのシンボルだった、大型船のスクリューを改造した大噴水

▼子供たちに大人気だった、ウォータースライダー

▼休憩中は、カップラーメンやフランクフルトを買いに行く、売店も2箇所あった

営業休止

2015年度の営業終了後の集計結果では、前年度の水道量に比べて、7割も増加しており、大量の漏水が生じていることが判明します。プールの仕組みとしては、ろ過機を通して循環させており、必要以上の水道量は配管の破損と判断し、地上の配管を目視確認したが破損が見つからず、地中の埋設配管複数が破損している可能性が高いことで、修理が不可能な状況となりました。水道料金の問題もありますが、地面陥没などの安全面確保も困難なことから、営業中止となりました。

・2016年7月 本牧市民プールは、老朽化による漏水で営業休止が発表された。

▼営業休止となった本牧市民プールの入り口

解体工事開始

・2019年10月7~2020年9月30日 本牧市民プール解体工事

▼フェンスに貼りだされた、本牧市民プール解体工事の掲示板

横浜市市民局 スポーツ振興課

▼八聖殿側からプールを見下ろした写真(赤丸が、埋設配管)

▼産業道路側の歩道橋からプールを見た写真(赤丸が、埋設配管)

▼本牧市民プール跡地の整備が完了した写真(配管も綺麗に撤去されている)

▼プールの産業道路側歩道橋の下に設置されたアンカーオブジェも撤去された

本牧市民プールのこれから

昔から愛された、本牧海岸の埋め立ての代案として、1969年にオープンした本牧市民プールは、老朽化による漏水のため、2016年から営業休止となってしまいました。そして、これからの市民プールをどのように整備していくか、横浜市は「プール及び野外活動施設等の見直しに係る方針(平成 27 年 10 月策定)」によって検討が開始されました。

横浜市と市民との意見交換会

・2018年5月 建替についての意見交換会が開催された。第1回は、上台集会場(中区本郷町)

内容は、プールの遊具や営業時間、夏季以外の利用のアイデアなど。

▼横浜市市民局スポーツ振興課で作成された案内

本牧市民プール再整備事業について

・2019年7月 PFI事業者の入札を開始した。

※ PFI事業(Private Finance Initiative:公共施設等の建設、維持管理、運営等を民間の資金、経営能力及び技術的能力を活用して行う手法)

・2019年11月 入札参加資格を有する全グループから入札辞退届が提出され、再入札となる。

・2020年7月 再入札を開始した。

・2021年4月 横浜市民間資金等活用事業審査委員会が、馬淵建設グループを落札者として決定した。

完成予想図

現状での発表では、常設遊具は「流水プール」、「ウォータースライダー」、仮設遊具として「アトラクションプール」、「幼児用プール」等となっています。また、キャンプ場の付帯設備として「バーベキュー」、「キャンプ」、「貸し休憩スペース」等もあるみたいです。敷地面積は提供公園面積を含み21,324平方メートルで、施設の延床面積は1,699平方メートル。165台を収容する駐車場を備えています。

・2023年7月 本牧市民プール再オープン(予定)

▼ あくまでも、イメージ図なので、実際の建物とは異なる場合があります。

出典:横浜市 市民局スポーツ振興課
出典:横浜市 市民局スポーツ振興課
出典:横浜市 市民局スポーツ振興課

ミュージック

本牧海岸を歌った楽曲が存在します。やはり、本牧を代表するクレイジー・ケン・バンドの横山剣さんが何曲か制作しています。また、本牧のボスことCHIBOWさんがThe MOJOS時代に発表した「本牧ロック化計画」の1曲目も横山剣さんが作詞・作曲をしています。更に、「本牧市民プール」を題材にした楽曲まであり、地元住民にとっては嬉しい限りです。横山剣さんも、インタビューでは何度も本牧市民プールへ遊びに行っており、再オープンを楽しみにしていると言っていました。
※ 「本牧海岸」、「歌詞」で検索してみると、まだまだ他にもあります。本牧宇宙人など。

タオル

本牧と言えば、クレイジー・ケン・バンドのボーカル、横山剣さん。2007年8月8日に発売されたアルバム「SOUL電波」には、本牧市民プールを歌った楽曲「タオル」が収録されています。横山剣さんは、本牧市民プールを愛し、そして何度も足を運んでいたようです。
その「タオル」では、ひと夏の恋の話で、若い男子と女子が本牧市民プールへ遊びに行って、女子から渡されたタオルの柔軟剤の匂いから恋に落ちてしまう様子を歌っています。

本牧ビーチフィールド

この楽曲も、作詞・作曲は横山剣さん。クレイジー・ケン・バンド結成以前に発売した「Crazy Ken’s World」や、バンド結成後の「SOUL PUNCH」に収録されています。また、楽曲提供として、コニーちゃんのシングル(「葉山ツイスト」に同時収録)として発売しています。
その「本牧ビーチフィールド」は、小湊から間門を自転車で走り抜けると、時空を跨いで本牧で起こった色々な出来事は、本牧海岸の海に眠り、本牧の今昔の想いを爽やかに歌っています。

黒ツヤ消しのスピードスター

この楽曲は、CHIBOWさんが、The MOJOS時代に「本牧ロック化計画」というアルバムを出した際の1曲目に収録されています。作詞・作曲は横山剣さん。
その「黒ツヤ消しのスピードスター」では、歌詞の中で超高速車は、ナビなど使わなくても、好きなところへ連れてってくれる感じを連想させてくれます。でも、最後の歌詞では「まるでMakadoにBeachがあった頃みたいじゃん」と、伝説とか幻影とか、まぼろし的な感覚で締めているところが恰好良いです。

本牧市民球場でのLIVE「Soul Punch 2005」

そして、2005年9月3日には、クレイジー・ケン・バンドが、本牧市民プールに隣接する本牧市民球場での野外ライブが開催されました。本牧を愛する横山剣さんのバンド、地元住民はもちろん全国から熱狂的なファンが大勢集合しました。その後も、本牧シンボルタワーでの野外ライブなど地元での開催は、本牧住民にとっては、とても素敵な空間・時間を頂いております。

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横山剣さんが作詞・作曲し「本牧海岸」に、ちなんだ楽曲が収録されています。

     

最後に

 本牧市民プール、いや「ミンプー」は私も大好きで、毎年、夏になると毎週土曜日には行っていました。朝、家を出て日陰の場所を確保し、プール中央のスクリュー大噴水が上がると同時にプールに入ります。(飛び込むと注意されますよ!)そして、昼頃になると2箇所ある売店でカップラーメンやアメリカンドックを食べ、混雑する営業終了時間の少し前には更衣室で着替え、外の売店でアイスを買って食べながら自転車で帰宅するのが最高の楽しみでした。

そんな中、2016年度からの営業停止。その後、横浜プールセンター、いや「マンプー」へも行きましたが、そこも2021年度に営業休止となり、横浜市営の大型プールが姿を消してしまい夏の楽しみがなくなって非常に残念な思いでしたが、やっと本牧市民プールが2023年度から再オープンするとの知らせに喜んでいます。

そこで、2022年は、本牧市民プールを詳しく調べてみようと思いブログにしました。調べてみると、静かな漁村の海に黒船対策として砲台が建設され、ペリーが来て落書きしていたとは驚きました。その後は、外国人の遊歩道が作られてリゾート地として海水浴となり、また戦争の為に軍事施設が建設されます。その後、日本人も海水浴を楽しむ文化が入り、路面電車開通に伴い更に本牧海岸は、海水浴や潮干狩りなどで大勢が楽しみました。しかし、日本の産業発展と同時に、その本牧海岸地区も埋め立て対象となります。海を失う代替え案として、本牧市民プールが建設され、夏になると子供から高齢者も皆で集まり憩いの場となりました。

老朽化で営業中止は、残念な知らせで、また入札の再入札や、コロナ過の影響もあり、当初予定の2022年度からの再オープンが2023年度とはなりましたが、夏以外のシーズンでも楽しめそうですし、バーベキューなどの新しい設備も登場し、バージョンアップしています。

来年は、また本牧市民プールで、子供達の笑い声や、キラキラした水しぶきが見られると思うと、今からワクワクしてきます。早く、「ミンプー。おかえりなさい!」と言いたい気持ちを込めて、今年はブログを書いて楽しみました。次は、本牧市民プールのレポを書ける事を楽しみに終わりにします。

皆さん、2023年の夏、本牧市民プールでお会いしましょう!

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